最高裁判所第二小法廷 昭和63年(オ)753号 判決 1988年9月30日
上告人(原告)
白石博資
被上告人(被告)
幸栄電機株式会社
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人増田義憲の上告理由について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文とおり判決する。
原判決は、著しく経験則に反した事実認定を行い(民事訴訟法三九四条)、理由には齟齬と不備があり(同法三九五条一項六号)、違法であつて破棄されるべきである。
一 原判決は、本件事故により上告人の「頚部が異常に伸長又は屈曲したことはない」(原判決書、理由一、7)との理由で、上告人の傷害および損害を否定している。
他方で、「(上告人は)本件事故の直前、運転席に腰を下し、シートベルトを外し、上体を左横の助手席の方へ左斜に傾け、助手席の前の車体にとりつけられた賃金メーター表に出ている数値を読み取ろうとしていた(その左手で手坂を、右手でボールペンを持つていた)ときに、本件衝突の衝撃を受け、その上体が左側肩を下にして、助手席上に横に倒れた。」(理由一、3)との事実認定も行つている。
二1 上告人には、本件事故前、昭和五一年一二月に事故による頚部の負傷歴はあるが、本件事故当時には頚部、上肢などに症状は全くなかつた。ところが、本件事故により頚部等に痛みが発生し、通院治療を行つたのである。
2 追突の交通事故に遭つた者が、その程度は別にして、頚部等に外力を受け、症状を発症することは汎くみられることである。この種の事故に関する損害賠償請求事件において、原告が頚部等に加わつた外力の詳細について主張、立証を行うことはない。
3 本件に関しても、原判決が追突事故および前記一で述べたような上告人が受けた衝撃と右1で述べた上告人の発症を認定(理由一、6)するのであれば、前記一で述べたような上告人の頚部が異常に伸長又は屈曲したことはないとの認定は、慎重に的確な反証に基づいてのみ行われるべきである。
4 原判決は、上告人が事故直後の実況見分において警察官に頚部の異常な伸展、屈曲を訴えなかつたこと、甲一六号証の交通事故現場見取図で上告人車両が追突により移動したとの記載がないことを挙げている。
しかしながら、前者については実況見分は負傷の程度について供述する手続ではないし、この種事故において一定時間経過後に発症をみることは通常よくあることである。後者については、刑事事件の採証手続である実況見分において、吉川車、畑本車の移動には関心がもたれたとしても、白石(上告人)車の移動にそれ程関心がもたれず厳密な図面が作成されなかつたとも考えられ、上告人の自車が一メートル程移動したとの供述を否定する程の証明力はない。追突時、上告人の上体が助手席上に横に倒れる程の衝撃があつたとすれば、白石車が全く移動していないとの事実認定は不自然である。
5 いずれにしても、上告人の頚部が異常に伸長又は屈曲するような外力は加わつていないとの原判決の理由は証拠に基づいておらず、他の事実認定とも齟齬している。
三1 前記の如く、原判決は本件事故直後の上告人の発症は認定しており、その後の症状の推移と本件事故の因果関係の検討は、医師による鑑定が重要な認定の証拠資料となる。
2 本件においては、医師吉岡薫がこの点について鑑定を行い、かつ、証言を行つている。吉岡鑑定は、本件事故で上告人は頚椎の神経根症となり左上肢のしびれ等を発症し、昭和五五年三月頃いつたん寛解したが、同年八月頃にはこの神経根症は脊髄症に悪化し、左上肢および両下肢にしびれ等を発症したとしている。吉岡証言によると(調書三四項)、神経根症から脊髄症への悪化の症理機序は解明されていないが、神経根症の「障害部位が徐々に広がつて行つて脊髄症に行く」と理解されている。
ところで、本件の場合、上告人は第五、第六頚椎間に加令現象としての変形をもつており、それが脊髄症の一因となつていることは指摘されている。しかしながら、他方で、このような変形は多くの人間に生じるが、発症をみない方が多いとの指摘もなされている(前同調書、三六項)。
3 このように、吉岡鑑定および同人の証言により、医学の見地から、本件事故直後の上告人の症状が進展し現在の症状に到つたことが明確に指摘されている。そうであるとすれば、これらの証拠資料を無視しない限り、頚椎間の変形という因子は考慮しつつも、本件事故と上告人の現在の症状(後遺症)の法的な相当因果関係は明白である。吉岡鑑定においても、「いずれにして本件交通事故に遭遇しなければ出現しなかつたという観点からすれば、すべての症状に因果関係があると考えなければならない。」と指摘されている。
4 上告人の本件事故後の症状の推移は、医学の領域に属し、それと本件事故の法的因果関係を認定するためには、吉岡鑑定および同人の証言は、経験則を補う唯一、有用な資料である。それにも拘らず、原判決は、これらを資料として正しく用いず、独自の判断を行つている。すなわち、前記の如く原判決は、本件事故直後の上告人の発症は認定しているのであり、明言はしていないが、本件事故により右の如き発症をさせる外力が上告人に加わつたことは認めつつも、上告人の現在の症状(後遺症)を生じさせる程の外力は加わつていないとの立論を行つているものと推測される。しかしながら、右述の如く吉岡医師は、事故直後の上告人の発症と現在の症状(後遺症)を連続するものと判断しており、原判決が拘泥する外力が、因子として必要であるとの判断は全く行つていないのである。
四 なお、原判決は理由二、4において、昭和五四年一二月一三日に初診を受けた三上整形外科医院の診断書(甲第三号証)に腰部挫傷の記載があること、昭和五五年九月頃に初診を受けた土肥病院の診断書(甲第五、六号証)に胸椎圧迫骨折の記載があることから、それらの項に上告人に外力が加わるような事故のあつたことを推認している。
しかしながら、前者については本件事故による負傷である。後者については、吉岡鑑定人が鑑定書および証言(調書、一八項)において、加令現象により胸椎の変形が骨折と誤診されていると指摘しているのであり、原判決はこの指摘を見落している(ところが、理由二、3では「……圧迫骨折の傷病があつたこと自体が疑わしい」としている。)。
仮に、原判決が指摘するような外力に上告人が遭遇していたとしても、それが上告人の頚部を異常に伸展ないし屈曲させるものであつたとの主張、立証は、被上告人において全く行われていない。
五 被上告人は、自動車工学の観点から鑑定書(乙第五号証)を提出しているが、原判決は、本件事故と上告人の現在の症状(後遺症)の因果関係判定の証拠としては挙げていない。
この鑑定では、事故を再現する形での実験は全く行われておらず、不確定な事実を他人の文献から引用した計算式にあてはめたに過ぎず、本件を解明した鑑定とはとうてい言い得ない。そもそも、上告人が追突を受けた時の上告人の車内での姿勢が、原判決の事実認定とは異なるものが前提とされており、その点からも的確な証拠とはなり得ない。
以上
(裁判官 島谷六郎 牧圭次 藤島昭 香川保一 奥野久之)